二度寝、あるいは

死がもっと優しいものであったならよかった。光に包まれていくみたいに、休日の二度寝みたいに優しいものであったなら、私はとっくに死を選択している。

私が死んでもきっと誰も悲しまないなんてことは言わない。なぜなら私は、この人たちはちょっとは気にかけてくれるだろうな、という信頼のある人間としかつるんでいないので。その心情が、ちょっとした雨に降られたような程度で済む人もいれば、心臓を鋭利な刃物で一突きにされたような程度になる人もいるだろうので。他人は結局他人だから、心情を推し量ることは私にはできない。心はその人だけのものだ。自分ですらわからない所があるのに他人に触らせることなど私はしたくない。

いつか何かあって、私がもし自殺することがあったら、好き勝手に推測する人もいるかもしれないが、それは自殺した私への冒涜に他ならない。普通の人間は、許可もなしに他人の財布に触れようなどとは考えない。私の心は財布程度の軽さだが、財布程度には大事だ。まあ、私のことなんて私もわからないので、自分自身で自分自身を邪推するのはやめることにする。それはいつか死ぬ私への冒涜だ。

いつかゴミみたいに死ぬ私の心に触れることが冒涜的であるとするならば、気が変になって、前向きに生きるようになった私が今の私のずぶ濡れの心にずけずけと入り込んできて汚い手で触ろうとすることも冒涜的だ。心は可変だ。だから美しい。その時々の心があってしかるべきだ。なので、やっぱりラベリングして取っておきたい。