傲慢(ごうまん)は、おごりたかぶって人を見くだすこと。
傲慢についてはウィキペディアでも読んでいただくこととします。今回はそんな話がしたいのではないので。
自己肯定感の話がしたいんですわ、通常、一般的に育てられれば自己肯定感というものは強くしなやかでちょっとやそっとじゃ損なわれないものに育つんですが。
親が厳しかったり束縛がきつかったりすると、自己肯定感はもちろん育ちにくいですし、自分以外に手のかかる兄弟がいると愛情のバランスがいびつになり自己肯定感もいびつに育つんですわ。
そうなると泥縄なんですわ、人間とはしょせん服着て二足歩行しているだけの獣なので、自分がやられたことしか他人に返せないんですわ。
他人への愛を発露したいけど、自分がもらってきた愛が束縛的なものであったり、そもそももらった覚えがなかったりすると、最悪の場合相手を傷つけかねないので発露しないのが正解なんじゃないかと思うんですわ。好きな人の苦しむ顔が好きなのなんて一部の変態だけなんですわ、少なくとも私は好きな人はずっといつまでも永遠に幸せであってほしいので。
この「幸せであってほしい」って思想が傲慢だろって言われたら閉口します。そんな思想の方と話すことも読ませる文章もありません、ほかの優しい人たちのところへ行ってください。あなたはきっと私を理解できないし私もおそらく理解できない。理解できない者同士ができるコミュニケーションは「スルー」の一つにつきますわ。私はあなたを見ていないしあなたも私を見ていない。それが一番穏便ですわ、さっさと失せろ。
閑話休題、嫌いなものに対して饒舌になってしまうのが私の悪いところですわ。好きなものを語る言葉など数えるほどしかもっていないのに。
好きな人ができて、この人とお付き合いしたいなと思っても、相手と合意の上でなければ意味がないと私は考えているので、相手に恋人がいるならばもちろん身を引きます。たとえ相手が現状に満足していなくとも、その先にある結末が「幸せである可能性」は捨てきれないと思うので。何があっても、相手が認めても、奪うようなやり方は人間的ではないように感じます。どうして、なんて聞くまでもない。出会う順番が遅かった時点で私に出番などない。素直に諦めましょう、でなければその恋に殉ずるべきだ。
私は一番好きだった人に「好き」を伝えようとしたところを遮られて「お前の口からはききたくない」とまで言われたので、その頃の私がクソだったことも未熟だったことも自分自身がわかっているので、それに対しては思うことはあれど何も言うことはないのでいいんですが、今現在の私が、誰かに好きを伝えられるほど成長しているのかどうかっていうのは非常に疑わしいところなんですよね。
もう私の結論は出ました。だから、この話は終わりだしこれについて一切の意見も反論も受け付けません、お疲れさまでした。それでは明日もよい人生を!