死人には口だけじゃな目も耳もない

友人に暇だと言ったら、遺書でも書けと言われた。

「遺書?また変なもん書かせようとするじゃないか、気が変なのは元からとはいえ、ここまでくると本当に狂人だぞ」

「まあ待て、話を聞け。こんなご時世だ、本当にいつ死ぬかわからない。葬儀の方法位家族に伝えておかないと、お前の大嫌いな会社の人間がひょっこり顔を出すかも知れんぞ」

それを聞いて『まあ確かに』と思った。俺は直葬の後、海に散骨してほしいからだ。

「それじゃ書いてみることにするよ。ありがとな、暇つぶしの案をくれて」

「いいってことよ、それはそれとして今度なんかおごれよ」

「へっ、がめつい奴め、うどん屋の天ぷらくらいならおごってやるよ」

「あざーっす、じゃあの」

「へいへい」

そんな会話をしたのが先日のことだ。

今俺はそいつの棺の前にいる。死因は知らない、聞いていない。そもそも俺はこうやって棺を前にしても、こいつが本当に死んだとは思えない。何かの悪い冗談だと思う……思いたい。だがどう見てもこいつは俺の知っている友人の顔をしているし、喪服を着て、茫然としているおばさんの顔にも見覚えがある。どうやら本当にこいつは俺の友人らしかった。

そしてこいつは、遺書の自分の葬儀の形式までは書かなかったらしい。俺まで呼ばれているのが何よりの証拠だ。……まあそもそもこいつの家族がこいつの遺書をまだ見つけてない可能性は大いにありうるが。こいつバカだったから、どうせ書いて机の引き出しとかにそのまま放りっぱなしなんだろう。なんとはなしに想像がつく。

『最後まで締まらないヤツだな』内心でそう独り言ちて、俺は棺から離れた。

 

そんな死んだ友人から、手紙が届いた。というか、葬儀の後家族から渡された。

どうやら遺書の通りに葬儀を執り行い、葬儀が終わってから俺に手紙を渡すようにも書いてあったらしかった。ごめん友人、締まらないヤツとか思って。段取りが完璧である、死後のくせに。人と遊ぶときは大抵5~10分遅刻していたくせに。

家につき、シャワーを浴びて、封を切った。

 

どうも、これがお前の手にわたっているってことは家族は私の遺志を汲んでくれたようだね。なんともありがたい話だ。まさかこれを本当に使う日が来るとは思わなかったが、備えあれば患いなしというやつだな。とはいっても、改まってお前に伝える話なんてないんだけどな。なんかこういう機会があったら、家族以外の人間に少しでも覚えておいてほしかったっていう気持ちが7割で、残りの3割が、お前に忘れてほしくないという願いからだ。

これから先、お前がどんな人生を歩んでいくのかまだ隣で『友人として』見守っていたかったが、残念だ。月並みな言葉になるが、できるだけ長生きして、たくさん家族をこさえて、それからこっちにこい。お前とまた馬鹿話できる日を待ってるよ。

 

これを読んで、俺は『あいつは本当に死んでしまったんだなぁ』という奇妙な感慨が湧いた。涙は出ない、悲しみが大きすぎるのかもしれない。少なくとも俺の目から出力できる大きさではないことは確かだった。

世間一般的の道徳的には、故人の遺志は汲むものなんだろう。だが俺は、もうすでに辛抱たまらなくなってしまった。今すぐこいつに会いに行って、一発小突いてやらなきゃいけない気がした。