雪見だいふくを分けてあげたいひとが無限に増殖してゆく

感情とはつくづく波のようなものだと思うんですけど、いまこの「お盆休みという大概の社会人が休みかつ愛する人と過ごしているであろう時間にずっとポ○モンの厳選をしている状況」では思い出したくなかったです。

悲しいの波にもまれて私も悲しくなってきちゃいました。私にもすきなひとはいますが、好きはあくまで一方通行なので私がいくら誰かを好きだろうとその誰かにもきっとすきなひとがいて、すきなひと以外からの好きなんてくずかごに入り損ねたくずなので、なんにも意味をなさないものになってしまうのです。伝えることで誰かを傷つけるすきは伝えない方が、私のためにも、誰かのためにもなるってすきだった誰かに教えてもらったので、私はそれを大事に抱きしめて生きていくしかないんですけど、だいすきだった誰かに唯一貰ったものなので。

私は私のことを意味のあるものにしたいと常々思っていて、かといって誰かに迷惑をかけたり誰かを傷つけるようなわるいひとにはなりたくないなと思っています。誰かを幸せにしたり、誰かの悲しみを和らげることができる人になれるように育てられてきたはずなので、少なくとも私の原型はそれなので、私にもきっとそれができるはずなんですけど、私が一緒に幸せになりたい人達は、もう幸せだったり、幸せを求めているけど、私の形とは違っていたりして需要と供給のミスマッチを感じます。

私は幸せって、すきなひとがご飯を食べているところをみたり、映画の途中でうつらうつらしていることをみれることだと思っているので、道のりは遠いなあと感じます。