9mmの石膏の壁

嫌だなあとか思っても口に出せなかったり、我慢しなくちゃいけない状況なんて腐るほどあるのに慣れないのはなんでなんだろうな。まだ半年も経っていないのに愛想笑いが嫌になってしまったし、無意識でも唇に少し力が入っているような気がする。何も知らなかった頃の私にはもう戻ることはできないんだろうな。何もできない。米しかとげない。ずっと高校生でいたかった。高校生、もっと言えば学生の時の私は永遠だった。永遠にこのくだらないやり場のない感情が蓄積する日々が続くと思っていた。たかだか12年しか続かなかった。社会人の私はもっと永遠だ。もしかしたら死ぬ一瞬前まで仕事しているかもしれない。そう思うとなんだか非常に嫌だ。誰かの腕のなかで凍えながら死にたい。まだ何も罪を犯していないのに私があたかも犯罪者であるかのように謗り嘲るのはやめてほしい。そういういじりだろうし、私の普段の言動が関係していてそういうことを言ってくると理解はできるが、納得はできない。行動を改めるつもりはない。単純に生きていたい。我欲に忠実に生きていたい。少し歳をとっただけの私はそれが幼子のわがままであることも知っているし、それがきっと叶わないことも知っている。ただ生きているだけの人間が自分のやりたいことで大成している人間を見たときに込み上げてくる嫌悪感はおそらく対象に向いているのではなく、自分自身に向いているんだろう。私はただ日々を消耗し命を削ってはした金に換えているので、自分の希望通りに生きている羨ましい人々が抱えている悩みや課題を無視してそういう人達を憎んでさえいる。無意味な憎悪、無駄は嫌いじゃないけど、そういうことじゃない。憎むことが無駄だとは言わないけど、私のそれは完全に無駄。そのエネルギーは確実に別のものに向けた方がいい、資格の勉強とか。そう、自ら新たな世界に旅立つときに、延々と壁を這い上がれる人は少ないとおもう。少なからず外からの影響があって、壁に綻びを見つけたから壁を破壊して新たな壁に出会うんだと思う。世界の拡張はすなわち自らを創り壊すということなのだろうな。私たちは信仰を捨てることはできない。手を差し伸べてくれた誰か、道を示してくれた何かに神性を感じずにはいられない。どこかの誰かがあなたに何を言おうと、あなたは私の信仰の対象です。あなたを理解するつもりは毛頭ありません。信仰と不理解は別のガワを被った同一物です。