待ち人

「こんな町、さっさと出てってやる」 

寒々しい空の下、あいつはいつも呼吸するみたいにその言葉を繰り返していた。私たちは終着駅の町に住んでいたが、その駅まで車で1時間かかるような僻地だった。バスは廃線になって久しかった。

町にはちょっとした商店と煙草屋、それから役場くらいしかなった。電車を使って学校に通うようになるまで、自宅以外で髪を切ったことすらなかった。小中一貫の分校もあるにはあったが、生徒はせいぜい両手の指で足りるくらいだった。同い年の生徒はあいつしかいなかった。

あいつは、この時間が止まったみたいな田舎町のことが大嫌いだった。6歳のときに父の実家に預けられたって話をいつだったか聞いた。父は仕事で家をほぼ常に空けていて、母はその間に男を作って帰ってこなくなったとも言っていた。それまでは都会に住んでいたらしかった。「コンビニも無いなんてあり得ない」と、あいつはよくぼやいてた。

本当に娯楽という娯楽がない町で、雑誌が刊行日に届かないのは当たり前だった、漫画本はそもそも町の商店じゃ扱っていなかった。

だから放課後の過ごし方と言えば、ブランコと滑り台しかない小さな公園でくだらない話に興じる事ぐらいだった。私たちには娯楽はなくとも時間はあったので色々なことを話したが、それらのほとんどは忘れてしまった。

幾つか覚えている話もある。

例えば、夢の話だ。あいつは「幸せな家庭を築きたい」と言っていた。

「俺は、物心ついたときには親父は家に帰ってこないし、母親なんて俺に目もくれず毎晩遊び回っていやがったからな」

「だから俺は、子供が寂しい思いをしないような幸せな普通の家庭を築きたいんだ」と。

何様目線だか知らないが「悪くねえじゃねえか」と思った。

あいつは、高校入学と同時に前にすんでた都会で独り暮らしを始めたらしかった。らしかった、という言い方なのは私とあいつが中学卒業から全く会うことがなかったからだ。薄情な奴だと少しだけ思った。まあでも(結局のところあいつからしたら私も憎々しいこのクソ田舎の一部でしかなかったのだろうな)と、あとから思った。

もう高校卒業から5年になる。一応、成人式もあるにはあったが顔見知りが一人もいないことなど知れていたので行かなかった。

あいつは未だに盆暮れにすら帰ってくることはない。元々、ここはあいつの帰る場所ではないのだから仕方がないとは思う。

だが、あいつがここにいたという事実は消えない。私はこのクソ田舎に帰ってくる度にあいつのことを思い出している。あいつは私のことなんて微塵も思い出していないだろうが、なんだか不公平だと思うが。

また今年も盆がきて、屋台の数が片手の指で足りるくらいの規模の夏祭りをやっている。太鼓と笛の音が聞こえる。

「黙って出てったんだから黙って帰ってくりゃいいのに」そんな誰に届くでもない言葉を独り言つて、煙草の火を消した。

あいつは夢を叶えられただろうか、あいつの言う普通の家庭をちゃんと築けたんだろうか。それだけはなんとなく知りたいと思う。

あいつが「夢を叶えられた」と胸を張って私の前に現れようが、「やっぱり駄目だった」と恥じらいながら逃げ帰ってこようが、時間の溝なんて感じないくらい笑い合うことができるだろうという確信だけはあるので、帰ってきてほしい。それでも、あいつがスーツとか着てしゃんとした大人になっていることを想像すると、納得するまで帰ってこないでほしい気持ちもある。常にそんな感じだ。

あいつが私の前を去ってから、一瞬たりともあいつを忘れたことはなかったのに。最近、声を思い出せなくなっていることに気がついた。だからきっと、近い内に私はあいつを忘れてしまうんだと思う。あまり愛情を知らない寂しい子供のことを忘れてしまうのか。なんだか悲しい気がした。だから、私があいつへの愛を忘れてしまう前に、何者でもないあいつ自身のままで帰ってきてくれりゃいいのに。