文サラダ 私が液体になるまで味

今ちょっと精神に余裕がない時期が到来していて、何かあるとすぐに死にたくなるんだけど、生きていたくないことと今この場から消えていなくなりたいことと死にたいことはまったく違うんだろうなとか考えている。何かやらかした時はとりあえずその場から逃亡したくなるし、日曜の夜とかに明日も仕事か~とか考えると呼吸をやめたくなる。私は人工呼吸器をつけている訳じゃないから呼吸を任意でやめることはできないけど。

私にとっての死にたいという感情はどうも自責の念のようなもので、何かやらかした時にその場からいなくなれない状況に死にたくなったりする。後は過去の悪行を思い出したり、過去の多分輝いていた自分を思い出したりしても死にたくなる。なんでなんだろう、私は今までもこれからも輝くことはないだろうに、今の私には過去は少し眩しく見える。まだ可能性があったから、そして今の自分には可能性すらないから過去が眩しく見えるのかもしれない。可能性は光だ。人類の発展に必要な炎。プロメーテウスも多分頷くと思う。だけど私はその炎に身をやつしているので、ついでにもうちょっと脂身が焼ければいいのにとか考えている。痩せたい。

何が言いたいかっていうと、少なくとも今の私は、自分の道を往くということが途方もない苦痛で塗り固められたことかのように錯覚しているのだ。錯覚じゃないかもしれないけど。だからその苦痛を分かりやすく放棄してしまいたい。後に続くものが誰もいないこの道を歩くことをやめてしまっても、後ろにも前にも人がいないのだから邪魔にはならないはずだし、死人にくちなしなので言うことはない。ドロン。っとしてしまいたいのだ。あいにく私は伊賀にも甲賀にも連なる名を持っていないのでドロンすることができない。蒸発したい。私は7割液体なのでそれが蒸発したら死んでしまうけど。まもなく死亡が確認されるような状態で救急車に乗るのは迷惑ではなかろうか。誰にも迷惑をかけない死にかたなんてもんは地球最後の人類にしか残されちゃいない。私にはその権利を渇望する権利さえない。にゅうん。来世は水の1滴か猫になりたい。水になれば常に誰かと一緒だし。猫は実質液体のようなものだし。かわいいので猫になりたい。猫になって自己肯定感を高めてそれを次の人生に持ち越したい。まあ私前世猫だったしな…って言いながら生きていきたい。

死は静的に見えてその実動的なのだ。私達から最も遠いように見えて、常に私達の周りに滞留している。さも隣人のようにみえるその顔に浮かぶ優しい目はこの世で最も昏い虚だし、何も持っていないように見えて常にタイミングを測っている。私達が死を選ぶのではない、死が私達を選ぶのだ。ずっとそうやって続いてきた、その流れに逆らうべきではないのかもしれない。暖かい眼差しで微笑みながら花でも摘み取るように無邪気に私達を連れていくのだ。つまり死とは幼女だ。かわいいね。しっかり手を繋いでつれてってもらおう。