文サラダ塩味

大体の人はそうだと思うんだけど、悲しいとか辛いとか苦しいとかマイナスの感情を言い表すときは山ほど言葉が出てくるのに嬉しいときとか楽しいときとかって言葉にできないことが多いよな。なんでなんだろう、俺はこんなマイナス思考のドブ野郎になるために生まれてきたんじゃないのにな。人生ってクソ難しいな、ロードできればな、とか思ってっから駄目なのかな。どんなに指導教諭と反りが合わなくても楽器の先輩に一発入れてやりたいと思っていても部活をやめるべきではなかったのかなとか今でも思うんだよな。3年前の出来事だっつーのに全然拭い去れてないんだよな。自分の選択を唯一絶対のものだとわかっていても納得したくないんだよ。納得してしまったら俺が悪かったことになってしまう、まあ9割方自分の堪え性のなさに起因しているから納得もクソもないんだけどさ。

諦めて前向いてあるいていくしかないんだろうな、記憶とは墓標の事だし。墓標に刻まれた名前をいくら読み上げたって故人は帰ってこないんだ。記憶の中から故人をサルベージすることが魂に対する最低で劣悪な侮辱であることを私たちは忘れるべきではなかったんだよな。いくら謝っても足りないんだ、俺の将来の夢はもう死んでしまって喉仏も残っちゃいない。誠実であるかどうかは一旦置いておいて、諦めることは私がこれからも私であるために必要な痛みなんだな。過去の自分と対面はできない。過去の私からしたら今こうやって布団の上で胡座をかいて文章をポチポチ吐き出している私は唾棄すべき存在なのだ。一体どこで間違えたんだろう。自分を過大評価して大学に行くと宣っていた奴等を尻目に高卒就職を決めたときだったか、はたまた、将来の夢を短冊に書きながらどうせ叶えられないだろうなとどこか冷めていたときからだろうか。悲しくなってきたな、ここまでくると晴れていても雨が降っていても辛いことがあっても嬉しいことがあっても悲しいと感じてしまうんじゃないかと錯覚する。私は逸脱していない人間だから嬉しいときに笑えるし悲しいときに泣けるのにな。私は、良くも悪くも逸脱してない人間だから、毎晩眠るときに願わずにはいられないな。幸せになりたいなぁ。足るを知るべきだとは重々承知しているが貪欲でありたいな。人生には張り合いがなければ意味がないからな。とりあえず、甘いものが食べたい気持ちになってきたところでやめておこうと思う。おやすみなさい。