雑記9

親から子への愛は過去の自分と比較し、子供の頃の自分はどうしてほしかったのか、親としての自分はどうすべきなのか、という思考で試行錯誤しなければならないことなのだろうな、と勝手に思っている。

私は、過去に自分がしてほしかったことしか叶えてやることができない…つまり自分の子供を鏡にして過去の私の願いを叶えてやっているにすぎないので、今そこにいる生きている等身大の子供を見えていない、見ることができないのだ。色眼鏡に気がついているのに外すことができない。今の私はここが未熟だと思う。

多分、私は、完璧な子育てを求めるが故に子供が欲しくないのだと思う。親だって人間だから間違うことはある、だけどその「親」が私で、自分自身が間違えることはすごく嫌だ、と思っている。自分の子供というだけで、私とは違う思考と心を持った「子供」に「自分」を押し付けてしまうことが、目に見えている。押し付ける愛は愛ではない、それが親から子に向かうものなら尚更。

相手が子供だとしても、一人の人間として、軽んじることも過剰に持ち上げることもなく適切に接しなければならないと思っている。

それ自体はなんら間違っていないはずだし、全くもって綺麗で真っ直ぐだと思う。こんな私からこんな思想が出てくるのだから読書などは無駄ではなかったと言えるだろう。が、口ではどんなことも言えるし、ここで言ったことを実現できない気がする。

 

子供が好きだからとか、自分の生きた証を残したいからとか、そんな理由で子供を作るべきではないのだと思っている。自分の子供を見て自己嫌悪から虐待をしないとは限らないし、自分の生きた証を残したいのであれば、名を残せるような才能を血反吐を吐くような努力の末にもぎ取ればいい。それが出来ないから子供を作るのだと言われたら、そうですかとしか言いようがない、さっさと目の前から立ち去ってもらう方法を考える。

あなたの子供はあなたのかわいいお人形でもなければ芸術作品でも文学作品でもない、そこに存在する、一人の人間なのだ。どうかわかってほしい、私自身の宗旨のようなものだ、私は私自身のこの世に生を受けるかどうかすらわからない、まだ見ぬ我が子に一生誠実でありたいのだ。

誠実であることは、私が父親として我が子に払える最初にして最低限の対価であり根底に敷いておかねばならない意識だ。最も重要なことだ。

一人の人間を育てる義務に向き合うに当たって、誠実に接することは当たり前だ。全身全霊を持って愛情を注ぎ、肯定してやること、間違えた道に進もうとするならしっかりと話し合いアドバイスをし、自分で決めさせること、子の意思を尊重することが重要なのだ。

何度も言うが、私は子供がほしいとは思えない。なぜなら「我が子に対して、誠実な父親であれる自信がないから」だ、不出来な人間だと笑ってほしい。

子にとって「親」とは唯一無二で絶対的な生命体なので、私のような人間が、我が子にとって唯一無二になってはいけないのだと感じている。なぜそう感じているかは知らない、許してほしい。私は我が子からの失望が怖いのだ。有名な絵画のサトゥルヌスにとっては完璧である自らをそこから引きずり落とすかもしれないという危惧から自らの子が瑕疵となった。私は逆だと思う。子という無垢な完全性を傷つけるのが私であってはならない。私の子に産まれることによってその子の完全性は永遠に剥奪されてしまう。それはあまりにも忍びないし申し訳ない。許してほしい。

 

私が、いつか、産まれていない我が子の完全性を剥奪してまでこの両の手で抱き締めてやれたなら、それこそが私の人生にとって最も重要な一歩になることだろう。