ざ〜〜んげ♡

手嶌葵の明日への手紙聞いてると本当に申し訳なくなる、過去の自分に

 

ごめんなさい、俺は大学生にすらなれませんでした。高卒で就職しました。生きていたいなんてもうずっと思っていません。成人した自分へ手紙を書いていた頃のあなたではありません。タバコも酒もやめられません。いつもへらへらしてなんとか過ごしているふりをしています。許してください。あなたの思い描いてるような未来は全く歩んでいません。将来に不安を感じて毎日どうにかして迷惑をかけずに死ぬことだけ考えています。彼女はいません。多分できません。作る努力をしていないしこんな卑屈な奴に彼女なんてできても長く続きません、続きませんでした。本当に大事にしたかったのは嘘ではありません。俺のことを好きだと言ってくれたので、一生幸せでいていほしいと思っています。俺が好きになれない俺のことを好きだと言ってくれたので。大事にしたいから一緒にいられないと思ったのです。俺は手にするもの全部だめにしてしまうから、こんなに大事なもの手元においておけないと切に感じたのです。許してください。もう生きていたくないんです。毎日できない量の仕事をみて絶望なんてしたくないんです。目をそらしてタバコなんて吸いたくないんです。ぼやかすために酒なんて飲みたくないんです。生きていることが本当に嫌になってしまった。ごめんなさい、俺は俺の未来すら守れませんでした。今日も死ぬことだけ考えて目の前の仕事に翻弄されていました。

迷惑

10分だけ文章を書こう、その10分間で考えた事は何があっても公開しよう。

 

人生の価値は生きている間には決まらないもので、私が死んでやっと私の人生には価値が付くんだってのはもう大体常識みたいなものなんですが、他人からの価値を気にして生きていかなければいけないの、単純に悔しいというか悲しいというかなんとも形容しがたいんですが腹が立ちますよね。

ただ穏やかに、水が上から下に流れるみたいに、花が咲いたら枯れるみたいに、穏やかに、穏やかに凪いだ人生を生きていきたいんですが、他人は私に代わることを求めてくるので、不変の心を持って生きることは私には難しいことなんだと知りました。

自分の思うように生きていくことができないのであれば一刻も早く人生を終わらせるべきなのではないかと思うこともあったのですが、やめました。

私が死んだところで、私が死ぬに至った原因を作った人たちは「なんで死んだかわからん」とか「あいつは弱かった」とか抜かすだろうというのが目に見えているので、それならそういう人たちに少しでも多く迷惑をかけて生きていけたらいいなあって思うようになりました。どうせ私は生きているだけでも迷惑なので、これ以上迷惑をかけようとかけまいと今までかけてきたことは変わらないので、それなら1個多かろうが少なかろうがあんまり変わんないと思うので、私が自ら死を選ぶ意味は薄いんじゃないかと思います。

人生なんてそんなもんなので、他人から迷惑かけられたときにどれだけ他人を許せるかなので。それなら私は少しでも寛容で、他人に迷惑かけられる人間でありたいと思います。

 

おかゆかゆかゆ

じんせ~について考えている?考えていません私ですどうもどうも。

おかゆみたいな文章が書きたいんですけど、出来上がるのは吐しゃ物なので参ってしまいました。まあ言葉は口から出るものなので案外間違っていないのかもしれません。言葉と吐しゃ物ってなんか似てますしね。いや似ていないな。

最近ずっともう一生会う必要も可能性もない人の鮮やかな恋のおわりについて考えています。きっと会わないうちに考え方が変わったのだろうと思います。辛く苦しい道を歩くうちに、いつしか隣に立っている人のほうが魅力的に見えてしまったのだろうと考えます。ああ、かわいい恋をしていたあなたはもうどこにもいなくなってしまったのですね。夢を亡くしてしまったのですね。私にはそれがどうしても悲しい。どぎまぎするくらい夢見る少女だったあなたに、そのままでいてほしかったのは私のわがままだとわかっています。誰かに何某かの属性を付与してしまうのは田舎者である私の悪い癖です。今の自分の幸せを取る方がもちろん大事だと思います。けれども、過去の自分が考えていた幸せも同時に大事にしてあげてほしいのです。それが叶わぬ夢、ややもすれば明日には打ち捨てられるような、そんな無様なものであっても。あなたしか知らない、あなたの生きていた意味なのですから。

私はもう長く「お一人様」でいたので、誰かのために生きることも誰かと共に生きることもできないかもしれませんが、あなたは違う。幸せな、幸せな現実を生きていくのだから、幸せなあなたを一欠片も残さず持っていってください。あなたの幸せはあなたにしか作り出せないものなので。過去と未来のエッセンスをまぜこぜして幸せな現実を生きていってください。

どうかお幸せに、私はあなたのことをもうどうでも良くなってしまったけれど。

じここーてーかんの終わり

傲慢(ごうまん)は、おごりたかぶって人を見くだすこと。

ja.wikipedia.org

 

傲慢についてはウィキペディアでも読んでいただくこととします。今回はそんな話がしたいのではないので。

自己肯定感の話がしたいんですわ、通常、一般的に育てられれば自己肯定感というものは強くしなやかでちょっとやそっとじゃ損なわれないものに育つんですが。

親が厳しかったり束縛がきつかったりすると、自己肯定感はもちろん育ちにくいですし、自分以外に手のかかる兄弟がいると愛情のバランスがいびつになり自己肯定感もいびつに育つんですわ。

そうなると泥縄なんですわ、人間とはしょせん服着て二足歩行しているだけの獣なので、自分がやられたことしか他人に返せないんですわ。

他人への愛を発露したいけど、自分がもらってきた愛が束縛的なものであったり、そもそももらった覚えがなかったりすると、最悪の場合相手を傷つけかねないので発露しないのが正解なんじゃないかと思うんですわ。好きな人の苦しむ顔が好きなのなんて一部の変態だけなんですわ、少なくとも私は好きな人はずっといつまでも永遠に幸せであってほしいので。

この「幸せであってほしい」って思想が傲慢だろって言われたら閉口します。そんな思想の方と話すことも読ませる文章もありません、ほかの優しい人たちのところへ行ってください。あなたはきっと私を理解できないし私もおそらく理解できない。理解できない者同士ができるコミュニケーションは「スルー」の一つにつきますわ。私はあなたを見ていないしあなたも私を見ていない。それが一番穏便ですわ、さっさと失せろ。

閑話休題、嫌いなものに対して饒舌になってしまうのが私の悪いところですわ。好きなものを語る言葉など数えるほどしかもっていないのに。

好きな人ができて、この人とお付き合いしたいなと思っても、相手と合意の上でなければ意味がないと私は考えているので、相手に恋人がいるならばもちろん身を引きます。たとえ相手が現状に満足していなくとも、その先にある結末が「幸せである可能性」は捨てきれないと思うので。何があっても、相手が認めても、奪うようなやり方は人間的ではないように感じます。どうして、なんて聞くまでもない。出会う順番が遅かった時点で私に出番などない。素直に諦めましょう、でなければその恋に殉ずるべきだ。

私は一番好きだった人に「好き」を伝えようとしたところを遮られて「お前の口からはききたくない」とまで言われたので、その頃の私がクソだったことも未熟だったことも自分自身がわかっているので、それに対しては思うことはあれど何も言うことはないのでいいんですが、今現在の私が、誰かに好きを伝えられるほど成長しているのかどうかっていうのは非常に疑わしいところなんですよね。

 もう私の結論は出ました。だから、この話は終わりだしこれについて一切の意見も反論も受け付けません、お疲れさまでした。それでは明日もよい人生を!

二度寝、あるいは

死がもっと優しいものであったならよかった。光に包まれていくみたいに、休日の二度寝みたいに優しいものであったなら、私はとっくに死を選択している。

私が死んでもきっと誰も悲しまないなんてことは言わない。なぜなら私は、この人たちはちょっとは気にかけてくれるだろうな、という信頼のある人間としかつるんでいないので。その心情が、ちょっとした雨に降られたような程度で済む人もいれば、心臓を鋭利な刃物で一突きにされたような程度になる人もいるだろうので。他人は結局他人だから、心情を推し量ることは私にはできない。心はその人だけのものだ。自分ですらわからない所があるのに他人に触らせることなど私はしたくない。

いつか何かあって、私がもし自殺することがあったら、好き勝手に推測する人もいるかもしれないが、それは自殺した私への冒涜に他ならない。普通の人間は、許可もなしに他人の財布に触れようなどとは考えない。私の心は財布程度の軽さだが、財布程度には大事だ。まあ、私のことなんて私もわからないので、自分自身で自分自身を邪推するのはやめることにする。それはいつか死ぬ私への冒涜だ。

いつかゴミみたいに死ぬ私の心に触れることが冒涜的であるとするならば、気が変になって、前向きに生きるようになった私が今の私のずぶ濡れの心にずけずけと入り込んできて汚い手で触ろうとすることも冒涜的だ。心は可変だ。だから美しい。その時々の心があってしかるべきだ。なので、やっぱりラベリングして取っておきたい。

 

 

だれか私をレモンサワーの缶に再梱包してください。

私と同じような人間を救うためにレモンサワーにになりたいのです。

誰かを救うことで、私がただ生きながらえているだけの無能である現実から目をそらさせてください。

 

4月から前いた現場に戻ることになったんですけど、私がいなくてもどうにかなる現場なんです。そこに戻って無能であることを再確認させられる日々がまた始まるのだと思うと、非常に非常に憂鬱です。買ったばかりの白い靴で泥だらけの水たまりを踏んづけるみたいに憂鬱です。

ただ無能であるならまだ許容できるんですけど、上司に罵言をいただくのが嫌です。人格否定ってほどでもないんでしょうけど、疲れた体にはしみるんですよね。

 

だから私を救えるように、私のことをレモンサワーの缶に再梱包してください。

そうすればだれかに無能だとそしられることもないはずなので、精神の平穏を守るためにも。どうか。

 

みれんタラタラ男、書き散らす

ちょっと気になってる人間がたばこの臭い嫌いらしいので、お金もかかるしこれを機会に辞めようかなっつって、3か月くらい経ったんですけど確実になんか精神的に来てるなあと思う今日この頃の私です。まあ居酒屋とかでも吸えなくなりましたしね、去年の四月一日から。なんの御冗談だよって思ったんですがその時は。酒飲みながら吸えねえとかクソじゃんっつって。でも吸わなくなると案外どうでもよくなるっていうか「あ、また消極的に死ぬ方法自ら断ってしまったな」みたいな気持ちになりました。

まあそもそも?ほかの人間を好きになるのって、死にたくねえって大声で叫んでるようなもんだと思うんですよね。好きな事とか物とか人とか無かったらもっと未練・節操なくありとあらゆる様々なところでダイブできると思うので。自ら未練作りに行ってどうすんだよっていう話で、本当に死にたいならそういうのは何もかも断ち切ってしまえばいい話で。それができていない私はどうやったって自死を選ぶことはできないっていう結論に至りました。至ってしまったのです。残念なことに。まあ、私が勝手にその人を気になっているだけなので、相手からは頭おかしいとか臭いとか死ねばいいのにとか思われてるかもしれないですけどね。思われてたらどうしよう、なんで生物はスクリーンから人が消えていくみたいにフェードアウトできないんだろう。もっと、死が曖昧なものだったらよかったんですよね。死んだら確実に終わりだってわかってるのって怖くないですか?私は怖いです。まあこの考えも最近手に入れたものですけど。

基本的な性質として、私は自分の理解できないものが怖いんですよね。大した頭積んでないからこの世の中にあるほとんどのものが怖いんですけど。その中でも特に、「他人から向けられる普通とかいう尺度」と死が怖いです。「普通ってなんやねん。変遷していくものじゃないんか?お前の普通で私を語るなよハゲが」って思ってます主に上司に普通を語られているときに。

で、消極的に死ぬ方法って日常に沢山あると思うんですよ。タバコを吸うのを筆頭に、塩分を沢山摂ったり過剰な夜更かしをしたり、酒を吐くほど飲んだりとか。寿命を縮める方法って言ったほうが何となくわかりやすいですかね。私は私の意識がはっきりしている状態でなおかつ周囲にできるだけ迷惑をかけないで死にたいなと思っているので。65歳位まで大病をせずに定年を迎えて余生を過ごすぞーってタイミングで死にたいんですよね。わかってもらえることは少ないんですが。でもそれくらいの年齢になったらまだ欲かいて無様に生き恥さらすんだろうなと思います、今と同じく。

結局、生きてるのって楽しいんですよね。少なくとも今の私には自発的に手放すことはできないんですわ。予約してる漫画とか受け取りに行かなきゃだしね、せめて今コミックス飼ってる漫画の完結見届けてから死にたいっすよね。でも完結するころにはまた新たな死ねない理由ができてて常に今は死ねないっつって生きてくんでしょうね。その理由が漫画とか映画とかじゃなくて、家族のためとかもっと人間らしい俗っぽい理由になってるといいな。